昭和49年12月22 特別奉修委員



 今朝の御祈念に、私は今日始めて聞いたんですけれども、秋山さんやら、三橋先生やらのご親戚にあたる。あちらはうしのかわと云う事を今日初めて聞いたんですけど。親戚五、六人ぐらい今日は参っておりました。中には今日始めてという人をお導きしておられる。やっぱ隣同士にすんでおられる。それがあの息子さんが、丁度一年前に事故を起こして、そして相手の方が怪我をされて、それから退院はされたけれども、その後の保証の問題で、それが大変ややこしくなって解決しておらんと云う訳です。
 だからまぁ今日はそのお願いに見えた訳なんです。話を聞いて見ると、その事だけじゃない。まぁ色々まぁ家庭の色んな問題がやっぱ有る訳です。難儀な問題が。けれども信心が無いとそれを唯自分の力で処理しようとする。一生懸命やっているけれども、どうにも出来ん所まで行って、今日はお願いにまぁ見えた訳ですけれどね。でその事をお願いさせて頂いておりましたら、あの雪だるまですね。雪だるまに所謂あの目、鼻をたどんでくっ付けましょう。炭やら炭団やらね。
 それが雪が融けてしまって、残っておるのが、もう炭団だけと云う所を頂く。融けてしまって残っております。言うならもう問題は大体解決しておらんなら、融けてしまっているのです。良くなっている大体のこぉ言うならね、それがなら現在その苦労だけが残っていると云う訳です、ね。雪だるまは融けてしまった。だから信心とはね、そういう例えば様々な難儀な問題云うなら苦労。
 その苦労が生きて来るおかげを頂かなければ行けない。ならあんた達が今日ならこうしてお参りをして来たけれども、そういう難儀な問題があったから始めて合楽に御神縁を頂いた。御神縁を頂いたから、今度はなら大体はその保証問題のことだけでお願いにきたとばってん「あんた他には問題が色々あろうがの」と言うて聞いて見たら「こうこう」と言うて、並べ立てられる位に色んな難儀な問題がやっぱある訳ですね。
 だからそれを一つ一つおかげを頂くと言う事も有り難い。合楽に御神縁を頂いて、けれども是からは、仲原と言いますから。仲原さんご一家ご一門がね、本当に幸せになって行く元がここから出きるのですから。言うならばその交通事故の起こって一年間もたもたして、その難儀が丁度その雪だるまが融けて、もうその残っているはすみ炭団だけになっているけれども。今度はそれを生かして行くと言う事。
 其処でなら朝参りでもすると言う事は、少しは寒い思いもせにゃならん。冷たい思いもせにゃならんけれども。新たな雪だるまを又作る事だと私は言うた。そうするとこの残っていたこの炭団やら炭やらが今度は生きて来る事になるのです。今度生きて来るのは、本当な事に生きて来るのです。その苦労のおかげで、そういう難儀な問題があったおかげで、こういう尊い有り難いおかげを頂くと言う事になるのじゃない。 
 まぁ解らないからやっぱ詳しゆう何回も私は繰り返しその方に話をして聞かせたんですけれどもね。確かにそうです。金光様の御信心ちゃね。その苦労が生きて来ると云う事なんです。生きて来るなら生かす事は、今云う様に雪だるまが残しておる所の目鼻口だけ。炭団だけが残った、苦労だけが残ったというその苦労を生かすと云う事は、雪だるまを作って行かなければならん。そうするとその苦労が生きて来る。
 もうそこでは苦労ではない、修行として目鼻として口として生きて来る。と言うてまぁ話をしたんです。やっぱりこの方はもうまぁ彼で言うなら十回ぐらい参って来たでしょうが。矢張りその仲原さんのその「本家の方ですかねあちらの方は。目の悪かおじちゃん」何か遠い親戚か何か。それが参って来ておりますのに色んなお願いでしたけれども、もう八十にかなられるおじいさんが底碑でもう目が見えない寸前になっている。それでおじいさんを連れて、参って来いと言うたら、二へん連れて参って来ました。
 そしておばあさんがづっとこぉお参り、日曜日の度んびにお参りをして来るのです。それで、八十にもなるお爺さんは、中々その元気な心がある訳でしょうね。どうでも手術をするというから。私はお爺ちゃんが参って来た時に、折角私が神様にお願いをしているけんね。入院するっちゃちょっと、あの手術はちょっとあの待ってからね遅くはなかよと、私が申しましたから。丁度そういうお取次ぎをさせて頂いて、一週間ぐらいになるでしょうか。そしたら今日お婆ちゃんがお届をされるのに。
 おかげで目が見えるごとになったけんで、爺さんはもう手術はせんち言いよりますというてから。そんならもうちっとお礼のしようがあろうばってんと、私は思いましたけれどもですね。まぁ本当に信心が解らんと云う事はそう云う事。そうかと言うて今日はあの、宮の陣から兄弟親子三人で参っておりましたのは、この頃から、そのある教会の御信者さんで、そこの先生は大変お徳の高い先生ですから、やっぱ人がどんどん助かる訳です。それがあの息子さんが白血病でもう医者。
 現在の医者ではもうどうにも出来ないと云う事で、金光様のにお願いをしておかげを頂いて助かった。もう是も医者がたまがってしまったそうですね。所がその又それが元の様になってしまった。だから医者も今度はもう幾ら金光様でも助からんと云う事になり。金光様の先生も、「今度は難しかろう」と言わしゃったそうです。それでなら合楽にお参りをさせて貰おうというて、参って来た。一番始に参って来るのに、私は丁度親教会にお礼にでおる所でしたから、ほんな入り口でお取次ぎをさせて頂いた。
 「おかげを頂いたね。あの私が今此処でお取次ぎをさせて頂いていると云う事はおかげよ」と私はいいよりました。それから又二度目に参って来た時には、もう私が下がってからでした。下がってからでしたから、けれども私がある用件でまた此処に座ったのと障子をあけて入って来るのが一緒でした。「はぁ素晴らしいタイミングね、もう是はあんたげんは助かると云う事は間違いなかばい。この前もあげんじゃったろうが。今度もこげんじゃったから、神様が受けて下さらんはずはなかよ」と私は申しました。
 そしたら初めの間いはそれが分からなかったけれどもね、二度目のそれには「はぁ是は助かる」と思ったらしい。その日からですね、所謂また是はなんち言うんですかね。言うならその、所謂機能が変わってしまってからおかげで、是もまた医者がたまがってしまっている。なら、金光様の先生もやっぱたまがっちゃると思う。勿論合楽に行った行ったと云う事は言うてありませんでしょうけれどもね。
 そういうそのおかげを頂いてね。今日は今朝からのご理解やらとこぉ思い合わせて頂いてですたい。本当にそういう例えば奇跡的な、ならそのおかげを頂くと言う事と同時に、是にはねどうでも信心がね、内容として伴わなかったら、それは何んにもならん。言うならそれこそ雪だるまじゃないけれどもね、融けてしまって残った物は苦労ばかり。そこでその苦労ばかりを今度は、修行として生かす事が言うならば信心ね。
 今の古川さん当たりがもうそれこそ、一生懸命のこういう一生懸命が、どこから出るだろうかと言う様な、一生懸命のおかげを頂いておられます。けれども例えばお参りをして来られる度んびに、ご理解を頂いてその御理解がもうそのまま血になって、肉になって行きよる様な感じですよ、ね。娘さんもおかげを頂く様になった。息子達夫婦もおかげを頂く様になったね。
 そして昨日当たりの理解を頂いて廻りの事を、身の廻り家の廻りと云う事を昨日頂いて、成程こういう難儀が続くはずだ、あるはずだと云う様な物が分かって来たという今朝からお届がありました、ね。それが解る所から本当の信心が出来るのです。その本当の信心が出来なければいうなら、苦労は生きて来ないと云う事。所謂またの所謂雪だるまの言わば目に止まると言う事にはなって来ないと言う事。
 天地の親神様の目に止まると言う事になって来ないと言う事、ね。天地の親神様の目に止まる程しの信心をさせて貰うと言う事がそのままお徳を受けると言う事です、ね。ですからどうでも一つおかげを頂いて、今日は初めて参ったその方に対するご理解をです。私共なら後者の皆さんの場合でもです、改めて此処を頂いてね。その苦労を愈々生かして行く信心に進まなければいけないと言う事ですね。
   どうぞ。